【『沈黙』の舞台をかつて訪ねた 長崎旅行③】五島・福江島 水の上教会
「ラ・ラ・ランド」ネットで今日見ようと昨日予約したら日付間違えて昨日だったYO!(滝泣)
さて、『沈黙』舞台旅の記録、続き。福江島・堂崎教会からバスを乗り継ぎ、今度はさらに西の水之浦教会へ。電話したらもう館内見学時間は過ぎてて中は見られませんでしたが、とても美しいロケーションの教会でした。バスに30分ぐらい乗ったけど、ちょうど地元の中高生の帰宅時間で、買い食いする部活軍団とか、バス停ごとに「ばいばーい」って手を振りあう子たちとか。そういうの見てるの好きです。
バスの車窓はこんなん。素敵。五島を旅しててずっと思ってたのが、どっちが海なのか、これは入り江なのか河口なのかとか、よくわからないこと。入り組んだ地形ですね
椿も有名なのかしら~ 伊豆大島もそうですね
「水之浦」で降りたら、目の前に小高い丘があります。そこに「水之浦教会」があります
この、背景に小さな港をのぞむ景色が最高でした。イタリアやポルトガルに行ったことがありますが、カトリックって、天井画や装飾、何から何まで埋めつくすというか、日本人な自分からすれば装飾過多な印象があったのですが、真っ白な教会と港、瓦屋根。純和風の組み合わせの景色が、独特ですよね。素敵でした。
素敵!ってのんきに言ってますが、ここも隠れキリシタンが移り住み、仏教徒を装い信仰してたところを見つかり弾圧に遭い…という、苦難の歴史があったようです。このサイトで詳しく説明してあった
山にはカトリック式のお墓が並んでいました。石碑の写真だけにしますが、ここはどこなのかと思う、不思議な空間でした。
山の裏っかわからも海が見えます。夕日も幻想的なんだろうな。こういう神秘的な景色が多いとこからも、昔の人は「神」の存在を身近に感じたのかな
さて、現世に戻り:-)。またバスで福江港に戻り、夜の町へ。目当てのお寿司屋が休業日で…というか、観光客向けの、島の、新鮮な海の幸!的な居酒屋が見つからない。見当たるのは焼き鳥屋さんとか…普段新鮮なお魚をいただいてるから、外食は焼き鳥とか、魚以外ってことなのかな?気仙沼でホルモンが有名なように…
しかし、港の近くでいいお店発見。「かきごや こんねこんね」
新鮮なお魚、創作料理、島焼酎、美味しいし可愛いワンちゃんがいる。五島に移住してきたという女性の店主さんと深夜まで話し込んでしまいました
青唐辛子を醤油につけてちょっとピリッとさせるのが五島流だそうだよ!
大満足の夜は更け、明日は一気に最北端、小値賀島(おぢかじま)へ向かいます。行きたかった教会は時間の都合で行けませんでしたが、ここがまたいいんだ!♪
40代で婚活を続けるということ
まるで長崎ちゃんぽんのようにネタをちゃんぽんします。
37で離婚したとき、私、もう終わったと思いましたよね。脳内でひたすら叫んでた。
「おかあさん ごめん」
離婚しちゃったから?孫の顔を見せられないから?何の「ごめん」だか自分でもよくわからなかったけど、ひたすら母親に申し訳ない気持ちでいっぱいだった(普段からドライな関係なのでなおさら)。男性不信もマックス、もう二度と色恋沙汰(色恋沙汰って 笑)はすまい、できまいと思った。
今思えばそんな悲観することはなかった 37でバツイチならまだまだいける。
しかし、この
まだまだいける
って考え方自体が、「井の中の蛙」状態だと気付いたのは本当に最近でした。そして、こう書いたことによって脳内に響く
いい歳したババアが何言ってんだよ
いい加減あきらめろよ劣化したおばさん
って男子(誰だ)の声が聞こえなくなってきたのも最近でした。
実際に「若い女性のほうがいい」と思う男性が多いのは確かでしょう。子どもがほしいならなおさら。そう、41…42…43で何が辛いかって、生殖可能年齢がオーバーになること。具体的に「子供がほしい」と強くも思わなかったし、そのために行動してこなかった自分ではありますが(というかガッチリ行動してきても授からない人もいるわけで)、「ああそうか、望んでもダメなんだ」と身をもって知る、自分を諦めさせる、納得させていくのは、なかなかしんどいものでした。そして、それは何で思い知らされたかというと、婚活サイトのチェック欄です
「子供がほしい」にチェックをつけている男性は、私は対象外なわけです
同じ立場の皆さん、どうやって乗り越えたの??
婚活とは容赦なくあれこれ、思い知らされる場ではあります。
「ああ 現世ではダメなんだ 来世で」とか、思えたらいいなあ…と思ったけど、割と今そう思っています
さて しかし43にもなり、悲観的な日々がいつの間に終わります(たまに思い起こすけど)。ダメなものはダメと腹をくくれたというか、諦めがついたというか、何というか、楽になったんです。焦りでいっぱいだったのに、婚活もやめてないのに、なぜか、いつのまに。
このように、人は何もしてないのに勝手に悲観的になり勝手に楽観的になります
「勝手に」と書きましたが、潜在的に、ちょっとずつ自信がついてったんですよね。男性と会ってごはん食べたり、なんだりすることによって。43の私に会ってくれて、もう一度会いたいと言ってくれる男性がいる(続かないけど)、それだけで私は心が前向きになります。単純なもんです。
「会ってくれて喜んでくれる」だけでうれしいなんて。けど、実際にそう思うようになると、年収だの見かけだのより、「話してて楽しいか」「気が合うか」だけに焦点が合うようになります。そう思えるのは、私が自立して仕事しているからかもしれません。結婚時も今も同じ仕事で、次々ストレスで人が辞めてく職場で辛くて、元夫に「辞めてもいいよ」と言われましたが、あの時やめないでよかったと本当に思います(その裏で元夫は浮気してたという…)。
結局今、彼氏がいないので、寂しい夜はあります。なんかうまくいかないなって、だいぶ凹んだこともあります。けど行動することによって、そういうちょっとした自信につながるとしたら、無駄じゃないと思えるようになった(と、自分に言い聞かせている)。そして、会ってくれる男性がいることで、脳内の「いい歳したババアが何言ってんだよ」って男の声も聞こえなくなりました。
「東京タラレバ娘」ってありますよね。批判を恐れたかドラマはずいぶん改変されてるんで原作(全巻持ってる)の話ですが、原作はもっと容赦ないんですよね。33の女子たちに「転んで助け起こしてもらうのは25歳までだろ」とか、金髪イケメンが言うんですよ。33の女子たちが結婚、不倫、セカンド女としていろいろ悩んでいて、その一人が「40過ぎて一人だったらもうホラーだ…」みたいなセリフを吐くんですよね。そうなの、世間的には「40過ぎて一人はホラー」
ご想像するような寂しい夜はあります。けど、ホラーってことはないよって、言ってあげたい。夫が帰ってこなくて、いてもかみ合わなくて寂しかった二人のときの夜より、自分で引き受けて寂しい一人の夜のほうが、生きてる実感があります。
というわけで、明日また会ってきます。
【『沈黙』の舞台をかつて訪ねた 長崎旅行②】五島・福江島 堂崎教会(堂崎天主堂)
運転できない私たちは路線バス乗り継ぎで2軒の教会を目指します。1軒目は堂崎天主堂(堂崎教会)。
…の前に、くいしんぼうバンザイな私たちは腹ごしらえをすべく、福江港から目抜き通りを散策。
福江港ターミナル。インフォメーションとか、お土産屋さんもある綺麗な建物
港から歩いてけっこうすぐに大きめの商店街がある。五島に来たら五島牛が食べたい!
そして電話までして、迷って、たどり着いたのはここ。
牛もおいしかったけどデミグラスうまい!自家製ドレッシングかけて食べるサラダも!
さていよいよ路線バスに乗り、降り、教会までは15分ぐらい歩きます。
バス停を降りるとこんな感じ
左奥に堂崎教会が見えます
けっこう距離があるけど美しい景色なので飽きません。のんびり、蛇行する道を歩きます。
タクシー運転手のおとうさんが休んでたり…
近づいてきました
着いたー。緑の背景の中、赤煉瓦が映えます。
いろいろな像や記念碑も。この教会自体は禁教令が解除された後にできたらしいですが、教会の中が「堂崎天主堂キリシタン史料館」になっており、迫害された隠れキリシタンの歴史を知ることができます。撮影禁止で残るのは記憶のみですが、オラショの楽譜とか踏み絵とか、古いクルスとかいろいろあって、「救われたい」という、すがりつくような、人間の強い思いに圧倒されました。
福江港ターミナルに戻り、別の路線バスで次の教会を目指します。
【『沈黙』の舞台をかつて訪ねた 長崎旅行①】五島・奈留島(江上天主堂)
『沈黙』観て感想書いてたら寝た子が起きました。2015年秋、長崎港→福江島→奈留島→小値賀島→上通島→佐世保→有田→長崎市の旅を、隠れキリシタンのこと中心にレポします。旅友(後輩)と一緒でした。
I'm going to report my trip for Nagasaki Area from Tokyo; Nagasaki port →Fukue island, Narushima island, Ozika island, Kamidori island →Sasebo→ Arida(Saga prefecture)→ Nagasaki city in Autumn,2015.
はい、まず長崎といえば。長崎中華街にまっしぐら、「江山楼」。具もおいしいけど、この白濁スープがウマウマ!スープだけでも買って帰りたい!
店を出るとべっ甲!べっ甲!な店がありました。
国宝・大浦天主堂。日本で最初に殉教した日本二十六聖人にささげた教会。殉教した西坂(今の長崎駅の近く)を向いている。そして1865年、ここのフランス人神父を浦上の隠れキリシタンがこっそり訪ねてきて信仰を告白したことが世界的な驚きをもって伝えられた(信徒発見)、そういう場所。私が行ったときは信徒発見150周年という記念の年でした。
巨大豪華客船が泊まっていた
グラバー園から望む長崎市。本当に坂が多くて、教会がちらほらあって、駅を出るともうこんな感じで、路面電車も行き交ってて。今回は3回目の長崎訪問でしたが、初めてJR長崎駅を出たときはその独特な光景に驚きました。日本全国、県庁所在地なんてだいたい同じ感じと思ってたから…(チェーン店づくしの駅ビルがあって、でかいバスターミナルがあって、みたいな)
長崎港を望む。
グラバー園も軍艦島も三菱が関わって作られたんですよね。現役の三菱重工業の巨大ドッグが見えます(工場萌えにはたまらんです)
夕焼け。五島へも軍艦島、左の橋をくぐって外海に出ます。私調べでは外海に出るととたんに荒れだす(笑)ロドリゴ神父、よく2往復も…
夜の大浦天主堂。漢字と教会の組み合わせがたまらん
思案橋でファースト酒。そういや新婚旅行は長崎で、「きのした」っていうイカ専門の割烹料理やに行きました。ちゃんとあったよ。もう今は感傷的になることもありません。
さて2日目。長崎港から船で五島の福江島へ。五島は窪塚洋介演じるキチジローの故郷。福江島は五島列島の中でも一番大きい、南端の島です。ホテルに荷物を置き、編集者の友達とすばやくルート取りを計算。福江島より、奈留島行きのフェリーに飛び乗ったほうがより教会を回れるという話になり(二人とも運転できない)、超絶ダッシュでその船に飛び乗る。係のおじさん、「そんな走んなくていいよ」と笑って待っててくれました。
奈留島。レンタサイクルもありませんというのでタクシーで。70代前半ぐらいの運転手のおとうさんがいろいろ教えてくれた。五島は基本的に、長崎で迫害を受けたキリシタンが渡ってきたので、島民の先祖は隠れキリシタン。自分が子供のころ、人が死ぬと仏教式の葬式の後に、人目をしのぶようにもう一度、キリスト教式の葬儀を行う人たちがいたのを覚えているとのこと。今は隠れなくていいのになぜ?と聞いたら、(二度葬式を上げるのは)隠れるというより体裁が悪いから、遠慮してたんでは、と運転手さん。
途中の高校に松任谷由実「瞳を閉じて」歌碑があった。この日は休日だったけど、平日だと、生徒が出てきて歌ってくれるとのこと(本当??)
細い路地を縫うように走り…山を抜けて…それは現れました。江上天主堂。木造の教会です
木造な上に窓枠の上の、こういう花びらモチーフといい、パステル調の色合いといい、メルヘンで可愛い。ザ・和洋折衷!キリスト教が解禁になってからの建立だそうで、そのせいか苦難の!歴史の!のような雰囲気は感じなかった。ただこんな山奥にひっそり佇む姿が、世を忍び人を忍び、だったのかなあと感じました。
タクシーの車窓からほかにも教会が見える。五島全域で50とか60とか、カトリック教会があるそう。ポルトガル宣教師たちの数百年前の布教の成果がここに…日本は広いですね、ほんとに
この頃はこれら長崎の教会群の世界遺産登録を大々的に目指してキャンペーンとかやってて(その後一回見送りとなった)、「観光客増えたんじゃないですか?」「まだ、そんなにそれほど(笑)」(運転手さん)
奈留島は入り組んだ地形なので良港が多いとのこと。世界的なボート競技の選手の方も移り住んできたそうです(運転手さん談)
【映画】『スモーク』(Smoke)
映画感想を忘備録として書きますが、友達に話せないコイバナとか黒い気持ちをここでつづりたいので、婚活ネタ(実際の最終目的は結婚ではなく彼氏がほしいのだけど)もぶっこんでいきます。
私、37で離婚して2年ぐらいは傷心で一人の生活に戻ることで精一杯で、40過ぎてからネット婚活、いわゆる婚活サイトに登録して、メールやり取りして、気に入ったら会う、を細々とやってきたんです。サイト以外でも知り合った人を入れると15人ぐらいかな。それで、真剣に好きになったのは一人、ちょっと続いたのもその一人、あとは、なんか一回二回、会った直後に終わっちゃいます。以下、「自分の魅力不足」を差し置いて、ちょっとぐちります
やりとりもそこそこに「ラインやろう」って方多いですよね。私はいわゆるショートチャットが苦手で、メールだと饒舌にいろいろ書けるのに、ラインだととたんに何を話したらよいかわからなくなる。「お仕事は何系ですか?」「どの辺に住んでますか」みたいな、最初のラリーはまあできるんですよ、その後なんです。
「離婚して何年ですか?」「お子さんいらっしゃるんですか?」「離婚原因は?」とかそういうことを、ラインで聞けないですよ、私にとってラインは「軽いチャットツール」なので、友達ならまだしも見ず知らずの男性と、そんな、もっと貯めてじっくり打ち明けたいような話を、チャットなんかで…(チャット偏見)
逆にそういうことをどんどん聞いてくる男性がいて、まあ今はそうなんだなと思って、いいなと思った人には特にあらがうこともなく答えるけど、会社の休憩中に見て、返事して、電車の中で見て、返事して、お風呂入って、返事は翌日、とか、コミュニケーションとして落ち着きがない。じっくりチャットできる時間など夜の数十分ぐらいなので、会話が散漫、断片的になる。
あと多いのが、「こんにちは」とかだけは送ってくるけど、会話は膨らませてくれない人。「今日は寒いですね」「お仕事今日も忙しいですか?」とか返して、「そうですね~」だけとか、、、なんなん、何したいん!
というわけで、自分にとってラインは浅いコミュニケーションしかできないもので、結果として「ラインしましょう」の人とは、ラインに移行したことによってダメになるパターンが自分の場合、多い気がします。でも、これだけ「ラインしましょう」の人が多いということは、チャットで盛り上がって出会いにつなげている人も多いのだろう。私はオワコンなのか…
でも、思うんですよ。ネットで検索する。ラインで会話する(会話したような気になる)。一回会う。なんかちょっと、食べ方が気に入らない。笑い方が気に入らない。あの発言、ちょっと気に入らない。その日の夜だけ「今日は楽しかったですありがとうございました」のやり取りをする。次の日からぱったりやりとりがなくなる。ああ、そうですか、切りましたか。ちょっともったいないかなと思いつつも、自分から「また会いませんか」という勇気はない。
ネット恋愛、出会うのは簡単、終わるのも簡単。ええ、深い関係につなげられない私に問題があること大なことは自覚がありますが、それをしみじみ実感する今日この頃なのです。
さて、『スモーク』。ハーヴェイ・カイテルが営むブルックリンの街角のタバコ屋を舞台の中心に据えた物語。妻を失った傷心から数年書けなくなっている作家(ウィリアム・ハート)、そこに父と生き別れた黒人青年が加わって…過去にワケありの人々が織りなす物語。最後にハーヴェイ・カイテルが、「クリスマス向けの小説のアイデアが浮かばないから何かヒントを」と請うウィリアム・ハートを前に、延々、語って聞かせる過去のクリスマスの思い出話で物語が終わる。ちょっと変わった構成だけど、タイトル通り、たばこをくゆらせながら話す男たち、女たちの会話を聞いているだけで、上質の小説を読んでいる気分になる(元々小説からできた映画なのだけど)。
それで、思ったのはですね、人と人が対面で話すことへの尊さと、それが失われた今への喪失感ですよ。ここの登場人物は、みな、直に会って、たばこをくゆらしながら会話する。妻を失って失望のどん底にいる作家。だけど、近所にあるたばこ屋には必ず顔を出し、二箱買っていく。そのついでに、店主と話をする。店主も彼の過去を知っているから、口には出さずとも気遣いながら、軽口をたたきつつ会話する。そういう描写が連なっていく。
1995年の作品なので、メールも携帯もないから当たり前といえば当たり前。1995年といえば私は大学3年生。私たちも、20年前はそうしてたんですよね。電話して、待ち合わせて、会う。ドイツにいた友達に会いに行ったときは大冒険でしたね、時刻表と、日本で最後にFAXしたやり取りが最後のやり取りで。異性と「会う」なんて、それはけっこうな冒険でした。電話か直筆の手紙、または会うしか相手とのコミュニケーションがなかった時代。相手の言葉の、重み。
直に会う。話す。失われたのだなあと思うけど、望めば今でもできる。「私はラインは苦手なので、実際に会いませんか」。気に入った人にはこれで行こうと思います。